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手紙が消えたあと、人類は何を遺跡として残すのだろう

2026.01.05
CALVIN
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手紙が消えたあと、人類は何を遺跡として残すのだろう

デンマークの国営郵便企業 PostNord が、2025年12月30日をもって、ほぼすべての郵便物配達業務を終了するというニュースを知ったとき、最初に浮かんだ感情は驚きではなかった。

「やはり、そうなるよね」という、静かな納得だった。

メール、チャット、電子署名。

日常のやり取りはすでに紙を必要としなくなっている。

郵便が非効率なインフラになるのは、ある意味で自然な流れだ。

けれど、少し時間が経ってから、別の違和感が胸に残った。

これは単なる郵便制度の終了ではない。

人類が“言葉を残す方法”を、また一段階手放した瞬間なのではないか、と。

古代文明が発見されるとき、そこには必ず物質として残った言葉がある。

石に刻まれた命令、粘土板の記録、羊皮紙の日記、誰かに宛てた手紙。

そこには政治だけでなく、恐れや願い、愛情や愚痴といった、人間の生の文面が残っている。

では、もし現代文明が何らかの形で途切れたあと、未来の現生人類や、あるいは別の知的生命体が地球を発掘したらどうなるだろう。

彼らは、私たちの文明をどこで読み取るのだろうか。

クラウドに保存されたテキスト。

暗号化されたストレージ。

電力を前提としたサーバー群。

それらは、人間がいなくなった瞬間に、ほぼすべて沈黙する。

データ文明は、驚くほど大量の情報を生みながら、同時に驚くほど脆い。

考えてみれば、これは皮肉な話だ。

私たちは史上もっとも多くの言葉を残している文明でありながら、史上もっとも未来に読まれにくい文明でもある。

ふと、空想が膨らむ。

もしかすると、私たちが「謎の古代文明」「突然消えた高度文明」と呼んでいる存在も、実は同じだったのではないか。

彼らは高度すぎて、石に刻む必要がなかった。

情報をエネルギーや有機体、あるいは高度な媒体に保存していた。

けれど文明が途切れた瞬間、その記録媒体ごと消えてしまった。

結果として、後世には「何も残らなかった文明」として扱われる。

存在していたのに、読めない。

だから神話になる。

もし未来に、壊れたデータセンターの残骸だけが見つかったら、私たちも同じ扱いを受けるのかもしれない。

巨大な冷却装置と意味不明な配線だけを残した、声の聞こえない文明として。

これは北欧だけの話ではない。

日本でも、同じ変化はすでに始まっている。

年賀状の枚数は年々減り、挨拶はSNSやメッセージアプリに置き換わった。

「出さなくても問題にならない」という空気が広がり、手書きの挨拶は、静かに日常から姿を消しつつある。

けれど、日本は少し不思議な場所だとも思う。

手紙やカードは完全には消えていない。

日常からは後退したが、祝祭の中には残っている。

特別なとき、特別な感情を伝えるときだけ、紙が呼び戻される。

結婚、別れ、葬儀、記念日。

あるいは、未来の自分に宛てた手紙や、タイムカプセルという形で。

それなら、いっそ発想を逆にしてもいいのではないかと思う。

手紙を義務や慣習として残すのではなく、祝祭として再設計する

たとえば、バレンタインのように、恋愛に限らない「言葉を贈る日」。

家族へ、友人へ、あるいは十年後の自分へ。

チョコレートの代わりに、言葉を渡す。

クリスマスカードを贈るでもいい。

年に一度だけ、あえて非効率を楽しむ週間があってもいい。

切手を貼り、ポストに投函するという行為を、体験として祝う。

若い世代には新鮮で、年配の世代には懐かしい、時間の交差点として。

デジタルと紙は、対立する必要はない。

デジタルは速く、紙は残る。

デジタルは共有でき、紙は痕跡を持つ。

文明の記録を、どちらか一方に賭ける必要はないはずだ。

もし未来の誰かが、瓦礫の中から一通の手紙を見つけたとき、そこに書いてあるのが、

「今日は寒いですね」

「元気にしていますか」

そんな何気ない言葉だったら。

その文明は、きっとこう判断される。

ここには、ちゃんと人間が生きていたと。

郵便が終わる国があってもいい。

デジタル化が進むのも自然だ。

それでも、言葉が物として残る祝祭だけは、手放さずにいてほしいです。

それは未来へのメッセージであり、私たち自身が人間である証明でもなれたらいいですね。

 

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